震災を忘れてはいけないのは被災者ではなく、
もう大丈夫、復興しているだろうと
思い込んでいる私たちだと書いた。
私の家は東日本大震災のときに
3週間の断水でスーパー等は食料不足、
ガソリンスタンドは無いと分かりつつも
エンジンを切った車で長蛇の列だった。
そして実家は無事だったが、
10m隣の祖父母の家が半壊。
屋根の瓦を撤去したり片付けや修復など、
終わりの見えない作業を黙々と行う日々。
この環境から逃げてはいけない、
みんな一緒だと思い込んでいた。
震災から3週間後、まだ余震もあって
不安で眠れない日が続いていたときに、
私は父にボソッと呟いたのを覚えている。
「安心できる場所で何泊か過ごしたい」と。
こんな大変なときに何言ってるんだと、
そう言われるのを覚悟していたのだが
「行くか!」と返事が来たのには驚いた。
そんなこんなでまさかの浅野家、
2泊3日の横浜への避難を決行。
残り少ないガソリンで横浜に着いたら、
まさかのスタンドが並んでない!!
普通に給油が出来ることに衝撃を受ける。
ホテルにチェックインして3週間ぶりの
お風呂に入り、幸せと安堵感に包まれた。
そして外出したら信じられないことに
居酒屋が夜間に営業している!!!
久しぶりにお酒を飲んで、そのお店の
名物だというメンチカツを食べたときに、
私が感じたのは幸せではなく罪悪感だった。
茨城の人達はたった100km南下するだけで
ガソリンが給油できて、お風呂に浸かれて、
お酒を飲みながら熱々のメンチカツが
食べられるなんて知らないのだから。
それと同時に東京や横浜の人達も
たった100km北上するだけで、
そんな状況が広がっているなんて
想像もしていないだろう。
2泊3日を予定していた浅野家の旅は、
あまりにも幸せすぎる罪悪感によって
1泊2日で帰路に就くことにした。
この写真を見てもらえば分かるように、
元日の地震から10ヶ月も経った今でも
輪島市の街並みは復興が進んでいない。
都心に近ければ、こんなに復興に時間が
かからないのではないかと思ってしまう。
まだまだ人手不足で私たちが出来ることは
現地に行けばいくらでもあるだろう。
能登空港までは羽田から飛行機で65分、
遠くないのに私たちは忘れてしまう。
もう10ヶ月も過ぎたから大丈夫だろうと。
だからこそ現地の人は辛い記憶を少しでも
忘れることで笑える日が増えればと思うし、
遠い場所で起きたことのように感じている、
私たちが震災を忘れてはいけないのだろう。